
私は今夏、「持続可能な社会と市民の役割」という授業の一環で、ミクロネシア連邦ヤップ島に2週間滞在した。ヤップ島を訪れ、私が一番強く感じたのは、その「可視性」である。
ここでいう可視性とは、個々人の自らの生活、それを形作る要素、過程への「可視性」を指す。ヤップ島では、食事の材料、睡眠時のマット、石鹸、さまざまなものを自らの手で自然から調達することができる。また、排便は、下水道に流れるのではなく、そのまま海産資源の構成を担う。
現代の日本、とりわけ私の生活する東京では、生産・消費(使用)・排出・再生、という生きる過程において、ほとんどの場合消費・排出の過程をこなすのみで、全体が見えにくい構造となっている。また、消費に当っても、プロフェッショナルな生産によって、容易に消費・使用できるように完成された形で生産され、私たちは生きるために「工夫する」ことを必要とされない。工夫は、生活の中で教授され、あるいは自ら獲得する一種の技術であるが、その技術は、利便性の裏側でひっそりと、しかしながらドラスティックに人々の中から失われ、代用品として、テレビではクイズ番組、雑学番組が流行する。つまり、人々は「工夫しなくていい」ことの代償に感づき始めているが、しかし自ら獲得することをもはや非日常的事柄と認識してしまっており、「工夫」を「工夫しないで」教えてくれるメディアが流行するという、きわめて現代的な現象が発生している。
東京で暮らす中で、ゴミを自分で燃やし、または埋立て、排泄物を処理する、ということはなく、また、日ごろお世話になるパソコン、テレビ、印刷物、これらを自分で製造することはない。機械が介在し、「苦労」を代行してくれる。また、そうした生活の中では、消費は自分の生活には跳ね返ってこない、また新しいものを買えばいいのである。次のサイクルへ循環させるためにはこのビニール袋、どう処理すればいいだろう、なんて考えることは一人一人の心がけ次第になってしまう。
「不可視」であるということは、つまり「無知」であるということである。「無知」は「理解不能」を発生させ、「理解不能」は「諦め」を引き起こす。「諦め」は「無関心」へと展開し、ともすれば、改善しようとする動きへの「反感」にも進展する。言い換えるならば、「可視」であるということは、「知」を獲得し、「理解可能」になっている状態のことであろうということである。
部分的な「知」の集合というのは「理解不能」である場合が多いように思われる。重要なのは体系的な「知」であり、そしてそれは「可視性」という言葉に集約されるのではないか。
では、私は、いや僕は、どうすればよいのだろう。どうすれば東京での生活を「可視化」できるのだろうか。そこで私が考えたのが「Visible house project」なのである。 。
人と社会のあり方について、多角的な視野を提供することを目指すNPO法人(サイトより一部引用)。早稲田大学の講義「持続可能な社会と市民の役割」のサポートを通して学生に体験を通した学びの機会を提供されています。
早稲田大学の一機関として2002年4月に設立されたボランティアセンター。「社会と大学をつなぐ」、「体験的に学ぶ機会を広く提供する」、「学生が社会に貢献することを応援する」という3つの理念を掲げ事業を展開(サイトより引用)。Visible House Projectの企画を全面的にサポートして頂いています。
長年にわたって地域社会が自然環境と調和して存続してきた知恵と技を、持続可能な社会づくりという現代社会の課題解決に活かすことを目指し開設された(サイトより引用)。都市と農村の関係を考える機会を提供してくれました。